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ぼくって結構わすれっぽいんですよね。
「あのときお前はこんなこと言ってたじゃないか!」と周りの人に言われることもあるのですが、たいていの場合は覚えていません。んで、なんで覚えてないんだよ!とキレ気味で怒られます。
覚えてないものはしょうがないだろと思うのですが…。
一般的に、覚える能力が高い人はすばらしい、そして忘れることは悪いことだといわれます。
そんな世間にのっけから疑問を呈する本が、『忘却の整理学』です。
忘れてもよい。忘れっぽくても、よい頭はよい頭である。それどころか、新しいことを考えるには忘却の助けが必要である。
ひと昔前に流行った『思考の整理学』の続編なのですが、なんともハッとさせられる内容でした。
タイトルの硬さとはうらはらに中身はエッセイ調なので、とくに力を入れなくても読めてしまいます。
忘れることに罪悪感がある人には、とくに読むべし。
ものを覚え続けることは、息を吸い続けるようなもの
ものを覚えることと、忘れることはセットで考える必要がある、と筆者は論じています。
つまり、「覚えて、忘れる」という一連の動作で1セットなのです。
さらに正確に言えば、「忘れてから、覚える」という順序になります。
まず忘れることでアタマの中をキレイにして、それから新しい知識を入れるのがよいと筆者は述べているのです。
勉強したら休み時間をとる、のでは順序が逆で、まず休んで、頭の中をきれいに、いくらかハングリーの状態にしておいてから勉強にする。おいしい勉強なんてあるものではないが、ハングリーなら、まずいものは少なくなる。ハングリーになるにいは腹にたまっているものを排泄すること、つまり、忘却をはたらかすことが不可欠である。
そうなると。まず忘却、そして記憶、忘却してから記憶という順序になる。つねに、忘却が先行しているのが望ましい。人間はながい間、まず、とり入れてひと休み、余計なものを捨てて忘れ、つぎにとりかかるのが順当であるように考えてきたが、残念ながら、一コマズレている。忘却から記憶、忘却から記憶というようにすれば、われわれの頭はずいぶん能力が高まるだろう。
知的メタボによっておこる《専門バカ》問題
あらゆるものが情報化され、日々さまざまなことが意図せずともアタマに入ってくるような時代になりましたが、それと同時に弊害も起こっています。
それは、脳みそがものごと覚えることに偏りがちになることで、思考が止まってしまうことです。
ものを知る、学ぶ、情報をとり入れる。それが頭の中で記憶されて、必要なときの活用を待つ。不要なものは適宜、忘却、排泄されるから、鬱憤、過多症になることはまずない。
ところが、情報化社会になると、入ってくるデータ、知識などは、自然の消化力をオーバーして、増大、保存、滞留するようになる。これが、長期にわたると、余剰な記憶、データが、精神に悪作用をおよぼすようになる。これが、知的メタボリック症候群にほかならない。
知識が多い人ほど考えなくなる!
今までの知識から考えることしかできなくなり、結果として新しいことを考えられなくなります。アタマがおじさんになってしまうということ、とも言えるでしょう。
とくに、学生や読書家など、知識を入れることが習慣になっている人は注意したほうがいいとのこと。
知識があれば思考で苦労することがない。思考の肩代わりをする知識が多くなればなるほど思考は少なくてすむ道理になる。その結果、ものを多く知っている人は一般に思考力がうまく発達しないという困ったことがおこる。
博学多識の人は、その知識、専門の外へ出るとまるで自己責任の思考、判断、工夫などができなくなってしまうということが実際に珍しくなくなって、《専門バカ》という俗語が出来ている。知識と思考の量は反比例するというのは検討に値する命題である。
「知は力なり」というのはよく言ったものですが、力も持ちすぎるとよくないということですね。
知的メタボにならないために
知的メタボへの対処法としても、筆者は忘却力を高めることをすすめています。
もっとも有効な対症療法は忘却力を高めることである。われわれは生まれながらにして、正常な生活による知識の整理、処理に必要な忘却機能にめぐまれている。だれでも忘れることはできる。よく忘れすぎて、大事なことまで忘れてしまうことさえある。
「継続は力なり」をはきちがえる現代人
継続は力なりという言葉が好きな人は多いです。とくにブログなんて書いている人だったら、みんな言っているんじゃないですかね。
確かに、継続は力なりなのですが、ちょっと考え方をあやまっている場合があると筆者は注意を呼びかけています。
継続は力なり。息継ぎのない継続はときに危険なり。間歇的継続こそ真に力なり、である。
まじめに続けるというのは、時にはよくない結果をまねくことになるというわけです。休み休みやりながら続けることこそが、本当に力になるやり方であると述べています。
忘却による思考の整理がとにかく重要だと、口を酸っぱくしながら述べていますね。ごちゃごちゃしたアタマになりたくなかったら忘れるのです。
良心的、というか、気の小さい人は、ほかのことにかかずらうのは不純といわんばかりに、一心不乱でその問題だけを考えつめるかもしれない。しかし、これは誤っている。そういう熟慮の結果は、しばしば即答とあまり変るところがない。休みなく考え続けていては、雑念を払うことができない。ごたごたした頭はとかく枝葉にとらわれて、根幹が見えなくなっていることが多い。
ノートをとると、覚えるどころか安心して忘れてしまう
ノートがめっちゃキレイな人って、クラスに一人はいるものです。授業の内容が一言一句わかるレベルで徹底的にノートをとる人も見かけます。
しかし、書いて記録する行為は忘れることを促すのです。そういえば、ノートが汚い人のほうが逆に成績はよかったような気がします。
そもそも、文字というものは、ひとつには忘れてはいけないことを書き留めるために発達した表記である。したがって、書けば、安心して忘れられる。記録、文章が残っているから、心配はいらない、そう思うから、忘れるのも早い。
逆に、アタマをキレイにするという観点だと、ノートに残すことが重要であると考えられます。
ぼくが書いている「なんでもノート」についても、書くことでアタマがすっきりする効果は実感していますね。
関連:「なんでもかくノート」を始めて3ヶ月ほどたったので効果とか感想とか。
忘れることでアタマのはたらきは良くなる
忘却をとり入れることで、アタマのはたらきはよくなります。それは、アタマの中がすっきりとキレイになるからです。
忘れることは悪であることが通説ですが、忘れることを忘れていては、覚えることができなくなります。忘却と記憶は1セットなのです。
なにかを忘れることの価値を見直したいと思った一冊でした。