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文章を書いていると思うことなのですが、感情や考えをそっくりそのままの鮮度で文章にすることはできないのです。
どれだけ気合を入れて書いても、どれだけ時間をかけて書いても、いま自分が体感しているままの感情や考えをそのまま文字にすることは不可能です。
あきらめるな!という意見もあるかと思いますが、アタマの中身を言葉として自分の外へ出すさいに、どうしてもそのままの保つのはむずかしいです。
言うなれば、考えを言葉にする際に、摩擦熱のように一定のエネルギーが失われているように思うのです。
結果として、どれだけ実力のある書き手でも、実際にその人が体感したことをそのままの鮮度で読者の人に届けられる人はいないという結論に至りました。
感情や考えは数字じゃない
実験の結果のような数値的なものであれば、その実験結果を文字でそのまま伝えることが必要不可欠です。しかし、感情や考えのようなものは数字による再現性がありません。
たとえば、めちゃくちゃ美味しいものを食べたときの感動を数字として表すことはできません。
食べログの星の数と自分がそのお店の食べ物を食べたときの美味しさは必ずしも一致していませんよね。
「海の宝石箱や〜」的な表現もできますが、それもあくまで美味しそうの域を出ません。
お店で美味しい食べ物を食べたときの味、食感、お店の雰囲気、一緒に行った人との関係などなど、美味しいものを食べたときに個人が味わう感覚、感情はその人のものでしかないのです。
(個人的には、誰と行ったかによって食べログの星の数は大きく変わると思っています。)
どれだけ技術が進歩したところで、人ひとりの体感はそのまま他の人が感じることはできないのです。
プロの書き手がプロたるゆえん
完璧に個人の体験を文章にできないという前提はありますが、世の中にはプロの書き手という人たちがいます。
どこからがプロなのか、というのは最近あいまいになっていますが、ぼくはお金をもらったらプロだと思っています。
話がそれましたが、プロの書き手がプロたるゆえんは「実体験との差が少ない」ことにあります。冒頭の話で言うところの、摩擦熱が少ないということです。
もちろんこれだけがプロの要素ではありませんが、文章の質という点ではプロの文かそうでないかの分かれ目はそこにあります。
実際に書き手が感じた体感やふとしたときに浮かんだ考えを、鮮度をできるだけ保ったまま読み手にとどける事ができる人はプロだなあ、と感じます。
「言葉にできない」を言葉にするのが本当のプロ
さらにいうと、その体験のなかで他の人では言葉にすることができない、いわば「名伏しがたい感情」を言語化できる人はプロ中のプロです。
文章を読んでいて「うわあああその感情が言語化されてしまったあああ」とつい叫びたくなるような文章の書き手は、本当にひとにぎりなのではないでしょうか。
ぼくが書いているのはブログではありますが、自分が抱いている感情や考えをなるべくそのままの鮮度で書きたいなあ、と思うのです。
そういえば、以前、某同業者氏と話していて――「100%満足出来る原稿を書けているか」みたいな問いに「そんなもん書けてたらもうこの仕事止めてる」「『完全な玉稿』みたいなのがこう、何処かにあって、届かないまでも必死にそれににじり寄ってるイメージ」との答えに非常に共感したなあ。
— 榊一郎 (@ichiro_sakaki) 2014年1月8日
ただ、榊一郎さんのツイートにもあるとおり、完璧に自分の考えを言葉にすることは一生できない気はしています。できるのは、完璧な言葉を求めて日々ガシガシ書いていくことですね。