記事内に広告を含む場合があります。
ちきりんさんのこのエントリー。
「生産性の概念の欠如」がたぶんもっとも深刻 – Chikirinの日記
「日本の会社において生産性という概念があるのは、工場だけなのではないか。それ以外のところでは、生産性という概念は全く無いのではないか。」と感じることが多々ある。
論旨としてはざっくりとこのような感じですが、確かに日本で生産性を重視している場所ってごく限られた一部だけですよね。
とくに、時給制のアルバイトは生産性の対極にあるといえます。極論、なにもしなくてもお金が発生しますし、実際そのたぐいのアルバイトは人気です。
もちろん、生産性の考え方は全くと言ってよいほど身につきません。生産する必要性すらないんじゃないですかね。
生産性を身につけるには、時給制を捨ててみるくらいのことは考えてもよいのではないでしょうか。
時給のアルバイトでは生産性はいらない?
先ほども述べたとおり、時給ではたらくアルバイトにおいて生産性という考え方は必要ありません。
極端な話、なにも生産しなくても一定の時間をその場所で過ごすとお金がもらえるのが、アルバイトの構造です。
そのため、時給制のアルバイトする人にとって、生産性というのは全く意識する価値のないものになっています。
ぼくも一時期アルバイトをしていたのですが、生産性とか全く気にしていませんでした。
仕事の成果がどうであれ、もらえるお金は同じですからね。がんばって生産性を上げる必要がそもそもありません。
出来高制の仕事を「受ける人」は生産性をかなり重視している
では反対に、出来高制のお仕事をする場合だと、どうでしょうか。
ぼくは現在、出来高制のお仕事をやっている状況ですが、かなり生産性は意識しています。
生産性があがればお給料があがる構造ですからね。早く仕上げることができれば、その分べつのことに時間を使えますし。そりゃ、どんなにわずかでも生産性を上げたくもなります。
おそらく、出来高制で仕事を「受ける人」たちは、全員が生産性という考え方をなにかしらの形で意識しています。
出来高制の仕事を「発注する人」は…?
しかし、出来高制で仕事を「発注する」人たちはどうでしょうか。
結論ですが、全ての発注者が生産性を意識しているわけではないでしょう。
出来高制で仕事を「受ける」人たちよりは、生産性を意識している人は確実に少ないといえます。
なにかしらの成果物があがってきて、それの成果物に対して対価を支払うのが出来高制です。
にもかかわらず、「かけた時間×単価」という時給制のアルバイトをさせているような感覚がどこかにありながら発注しているかたが、ごく少数ですがいらっしゃいます。
時給制のアルバイト的感覚は、必要なのか
生産性という考え方が欠けている現象は、時給制のアルバイト的な感覚が原因の一つではないでしょうか。
時給制のアルバイト的感覚は、たとえば「1日あれば終わる?…なら◯◯円(激安)でいいよね?」という形となって、出来高制ではたらく人たちを悩ませます。
(「すぐできそうだし、今回はタダでやってよ」的なもはやどこからツッコんでいいのかわからないものもあったりもにょもにょ)
その結果、業界全体がデフレになるという。
…さて、時給制のアルバイト的感覚は必要なんですかね。生産性よりも時給制が先行しすぎていやしませんか?
いったん時給制を捨ててみよう
いったん時給制を捨ててみる、というのも手でしょう。
たとえば、時給900円のところを700円にして、「お客さんが飲んだドリンク数」や「店に来てもらえた知り合いの数」などをインセンティブにするとか。
…いろんな法律に抵触しそうですが、例ですので。
すると、「今よりドリンクを飲んでもらうにはどうしたらいいんだろう」なんてことを考える余地のあるアルバイトができあがるのではないでしょうか。
生産性を上げることは善ですが、そのためには工夫が必要です。いったん時給という考え方を捨ててやるくらいの気概はあってもよいのではと。